1988年(昭和63年・33歳)、流山市のマンションに引っ越してきた。当時はバブル絶頂期で、私の住戸はくじ引きで8倍の倍率だった。ところがなぜか8倍に当選し引っ越す羽目に。思えばこの時から、私はマンション管理士に導かれてきたのだろうか。 2000年(平成12年・45歳)、マンションで大規模修繕工事が始まった。いろいろ問題があり、見るに見かねて管理組合の役員に立候補、理事長になった(*1)。実はこの時まで、私は管理組合の総会も常に委任状で済ませ、一度も総会に出席したことはなかった。(とても威張れることではありません。)。
理事長をやってみて数々の問題にぶち当たる。管理会社のビジネスも目の当たりに見て、管理会社と契約内容を変更した(管理委託費値下げ交渉、一括委託から一部委託へ)。そしてバイク置場の設置、ペット問題に立ち向かう。
当時ペット問題では、飼育禁止の規約を破り飼育している人たちに、私は理事長として規約遵守を押し付けた。その結果、飼育者の反発にあい夜も眠れない日が続いた。「夜も眠れない」とはよく聞く言葉だが実感したことは初めてだ。夜中にふと目が覚める、すると頭の中に次々とこの件に関連することが浮かんでくる。1時間も布団の中で悶々と寝返りを打つ。必死に考え薄氷を踏む思いでやったことが良い結果となり、この件は時間がかかったがきちんとまとまった。
丁度当時、マンション管理適正化法が制定され、マンション管理士が誕生する前夜であった。当時の私はマンション管理士ではなく、普通の理事長として走り回っていた。
理事長を3年務め、最後の総会が終わった夜、仲間と打ち上げをやった。酔いが回ってくるといろいろ本音も出てくる。楽しい思い出、嫌な事、感情が高ぶってくる。その夜の帰り道、私はもう1人の仲間と二人で歩いていたとき、突然思わず声を出して泣き出した。彼は私の肩を軽く抱き「もういいから。もういいから。」といった。私の泣き声は止まらない。涙が次々とほとばしり出てくる。なぜあの時私は泣いたのだろうか。今もってわからない。悲しかったのか、悔しかったのか、心の中にある何かがあふれ出し、それが涙となってあふれ出た。今、当時を振り返れば、3年間の理事長時代ずっとこらえて来たもの、耐えてきたものが、せきを切って流れ出したように思う。 この3年間の体験から知った理事長の責任の重圧、そして多くの時間と労力を犠牲にしても、周囲の理解をなかなか得られないもどかしさ。それらが今の私のマンション管理士活動の原点となっている。このホームページにある『起業理念』:「マンション管理組合の理事長様等が特定の課題に立ち向かうとき、協働してその目標を達成し、理事長様等の精神的負担と労力を少しでも軽減したい。」につながっている。
3年間理事長を経験し、数々の問題の解決を見て、管理組合を卒業した(はずだった。)。あるとき会社の同僚が突然亡くなった。通夜の後、皆でお清めに行き、一杯飲んでいる時、同僚が「マンション管理士という資格ができたらしい。すごいらしいぞ。」という。私「そんな資格、たいしたことないだろう。理事長なんて誰でもできる。」などとうそぶくと、同僚はきちっと言い放った。「資格も取らずに偉そうなことを言うな。そういうことは、その資格を取ってから言うもんだ。」。
私は「それもそうだ。」と思い、管理組合の理事長から離れて少し時間に余裕ができたので挑戦してみることにした。資格学校に7か月通い、勉強して資格を取った。
マンション管理士の資格を取った後、再び自分のマンションの監事に就任した。そして2005年(平成17年・50歳)、私が理事長時代に経費削減を目指して管理会社への委託を全部委託から一部委託に変更したことが遠因となり、その後の管理組合運営に様々な影響が出始めていた。考え方の違いから2つのグループの意見が対立し、3年近い年月を経て一応の解決を見た。マンションの運営を巡る対立を解決することは容易ではない。司法の場を除いて優劣をつける方法はなく、一般組合員は状況をよく理解できない事が多い。またこの種の問題を避けようとする人もいる。
そもそも事の発端は私が種をまいたのだ。理事長として精一杯の努力で問題を解決してきたはずだったが、管理組合というコミュニティの本質を見抜いていなかった。
管理組合とは、企業組織のように上長が部下に命令したり判断を示して済む組織ではなく、つまるところ「俺はあんたから給料をもらっているわけではない。あんたの言うことを聞く必要はない。」となる。また物事の判断基準も、サラリーマン、自営業、主婦で異なり、同じサラリーマンでも業種や社風により、また民間企業、官公庁、金融機関等により価値観も異なる。営業部門出身者、総務・管理部門等職種による違いもある。更に隣近所のしがらみが輪をかける。
この一連のことから、私は「管理組合は、盤石に見えても砂上の楼閣のようにもろく、ときに伏魔殿となる。心して運営すべし。」と学んだ。この体験は、先の起業理念に並ぶ私のマンション管理に対するバックボーンとなった。
今、マンション管理士になっている。若い頃からいろいろなことをやったが、どちらかというと器用貧乏タイプだ。何でもある程度こなすがあまり長続きする方ではなかった。ところが、このマンション管理士という職業は、なぜか私を離してくれない。いつしか「この道より我を活かす道なし。この道をゆく。」が私を支配する言葉となっていた。(*2)
管理組合様からコンサルタントの仕事の打診が来る。ときにはコンサルタント同士のプレゼンテーションと相見積で決める理事会もある。どんなに頑張っても取れない仕事がある一方、スルット懐に飛び込んでくる仕事もある。
仕事をしていると、毎回違った発見や勉強をする。同じ管理規約の改正をしていても、二つと同じコンサル業務にならない。そこには1回ごとに物語がある。そう思うときそれぞれの仕事は、天が私に「勉強しろよ」と与えたものだと思わずにはいられない。誰が言った言葉でもない、私自身の頭の中に自然に発生した言葉、それは「仕事は天からの授かりもの」(*3)という言葉だ。
昭和30年(1955年)、長野市に生まれる。市内中心部にある「鍋屋田小学校」「柳町中学校」を卒業。中学2年のとき父が病死した。
「長野工業高等学校 電気科」に入学。写真クラブで風景写真の撮影に熱中した。自宅に機材を買い込みフィルム現像、印画紙現像(モノクロ)をする。授業を抜け出して学校の暗室にこもる。写真を焼き上げ廊下を歩いていると、ばったり担任の先生に出くわした。 先生「おい、どうした。」 私「あの~。ちょっと風邪気味で。」 先生は「そうか。」といったが、じろっと見た私の脇腹には、先ほど現像したばかりの四切の写真があった。何も言わずに通り過ぎる先生。(感謝!)
卒業後、富士ゼロックス(株)に入社してサービスエンジニアとなる。
その後、営業職を希望しキヤノン販売(株)(当時。現キヤノンマーケティングジャパン)に転職。約28年間OA機器の直販営業を経験、主に民間上場企業を担当した。
40代は、中世城郭にひかれて戦国時代の城址(砦跡)を約100ケ所と鎌倉の遺構を歩き回る。一人で詳細な地図を片手に道の無い山中を、頂上を目指して登っていく。今でもまたやってみたい。
会社では営業職後、約7年の事務職を経て、いよいよマンション管理士の道を歩むため自主選択定年制度を選択した。本当は、資格を取ってからは居ても立ってもいられなく、すぐに独立してマンション管理士になるつもりだった。その矢先、母が入院しそのまま施設に入ることになった。毎月の仕送りを考えるととても独立できなかった。数年後、母が亡くなり独立する環境が整った。母は自分の身をもって私に独立の時期を授けたような気がする。
女房はかなり強硬に反対したが、離婚も辞さない私の決意(笑?)の固さを見通して、最後は首を縦に振った。今は良き理解者となっているが手綱だけはしっかり締めている。そして時々プレッシャーをかけることを忘れない。
ふるさと長野市は、今でも大好きな街だ。年に2-3度は帰る。善光寺と城山公園は私の庭のようなもの。当然「信濃の国」(県歌)は今でも歌える。
マンション管理士とは
マンション管理士は、専門的知識をもってマンション管理組合の運営、その他マンションの管理に関し、管理組合の理事長、役員等の相談に応じ、適切な助言や指導、援助等のコンサルティング業務を行う国家資格者です。
マンション管理士は、マンション管理のスペシャリストとして、管理組合の立場でマンション管理に関する様々な問題の解決をサポートします。